「障害者自立支援法では
  支給決定プロセスの不透明化が進む!」

  難病をもつ人の地域自立生活を確立する会 山本創


<不透明な程度区分の問題>

 検討されている障害者自立支援法の障害者程度区分で障害者の必要とする支援を計ることができるのだろうか。
 介護保険の要介護認定は介護員が常駐した特養に入所されている方を対象に身辺自立を基本としてつくられたものであり、地域で生活する障害者の年齢、ライフステージに応じた必要な支援を把握するためにつくられたものではない。要介護認定にもとづいた程度区分を地域で生活する障害者に準用する際の、項目設定やこの項目は生活全体の中で何点であるといった点数化の根拠はどこにあるのだろう。
 今までのところ、どのような支援、尺度が必要であるかといった、実際利用する当事者との十分な協議もされていない。にもかかわらず介護保険の要介護認定を準用した障害者程度区分が用いられるのであれば、まったくそぐわない尺度で生活を計られることになる。
 しかも、そぐわない基準で計られ、当てはまらない部分は国の福祉からも外れると同時に、国庫補助基準からも外れ、自治体の持ち出しで対応しなければならないことも予想される。
 支給決定の透明化をするのであれば、障害者の生活全体を明らかにしないままに、根拠のない不透明な障害者程度区分、コンピューター判定で障害者を振り分けるべきではない。
充分時間をかけた、当事者との協議が必要だ。

 不透明な障害者程度区分で一次判定された後、該当しない非定型的なものに対しては審査会に意見を聞くこととしている。もともとの障害者程度区分が実態に見合って作られていなければ、本当は必要とされている支援も該当しないと判定されることが予想される。
 さらに、該当しないと判定された必要とする支援を、障害者の生活を知らないメンバーによって審議される案となっている。医師や歯科医師は当然、医療や歯科に関しては専門家であるが障害者の生活の専門家ではない。
 障害者の生活を良く知らない、別の分野の専門家が、一次判定ではじかれてしまった本当は必要とされる支援を、その場限りの書類をもとにした一時の審査で判定し、施策に繋げていくことができるだろうか。
 画一的な判定で計れない必要とする支援にこそ、人間らしい生活を送る上で重要な福祉がある。障害者の生活を一番知る専門家は障害当事者であり、当事者の支給決定への参加を保障すべきだ。
障害者の生活を知らない他分野の専門家に審査会で判定されれば、不透明感は増すばかりだ。
必要とする支援が2段階にわたって否定される可能性は大きい。





<狭間の問題、
  一律の基準で計れないもの(社会参加)は福祉ではないのか?>

 難病のように、症状が複雑で一人一人の個人差がある者を一律の基準で計れるかも疑問だ。なかなか一律の基準で計れないからこそ、困難さも多く、原因も不明で難病といわれているのだが。
 難病だけではない、93年の障害者基本法の付帯決議に掲げられた、てんかんや高次機能障害、自閉症、アスペルガー、LDといったいわゆる発達障害もIQや身辺自立に傾斜した障害者認定といった一律の基準ではなかなか計ることができず福祉の狭間にあり続けている。
 又、一人一人個人差のある社会参加も一律の基準では計ることができない。個々の人の置かれている環境、ニーズは違う。違って当然だろう。
 食事の時間になれば、みな財布の中身と相談し、食べたいものを、それぞれの人が、いろいろな場所へ食べに行く。誰にでも保障されるあたりまえの生活の一つだ。
 それが数値化できない、するのが難しいから福祉から外されるといった暴論を許してはならない。ソーシャルワークはどこへ行ったのだろう。
 環境がこれだけ急激に変化すれば、環境要因との相互関係で規定される障害の形態も変化し、必要とする支援も変わる。ソーシャルワークがないがしろにされた画一的な支給決定では生まれてきた新たなニーズ、必要とする支援が施策になかなかフィードバックされない。
 すぐに制度疲労を起こすことになり、そのたびに継ぎはぎされる予算は相当なものになるだろう。

 利用する当事者の参加した、人と人との協議が尊重され、権限がもたされれば、数値化しなくとも支給決定はできる。
 支援費制度で尊重されてきたソーシャルワークの理念が尊重されず、画一的で数値化されたもののみが福祉とされるなら、狭間はさらに広がる(現在対象となり、利用する支援においても狭間は生まれ、広がることになる)。
画一的な制度に障害者の生活を押し込めるべきではない。